昭和40年03月15日 朝の御理解



 御理解32節に
 「女が菜園に出て菜を抜くとき、地を拝んで抜くというような心になればおかげがある。又、それを煮て食べる時、神様頂きますというような心あらばあたる事なし。」と御理解下さってあります。

 先日ある方が結婚をされましてから、その、お友達の人たちが、2人に花むけをしたいと話しあったんです。そして、何がよかろうかと色々協議の結果、親先生に色紙に何か一筆書いて頂て、それに額を添えて、花むけにしようということになった。もう、やがて11時、もう私ここをさがろうとしておるその時、おそうなりましたから、やがて12時なりましたでしょうか、ですから、もう、遅うございますから明日でも良いですから、これに何か一筆書いて下さいとそれはもう実に見事なその額縁なんです。
 これは私が書いたぐらいな、そげな立派な額に(笑)勿体なかろう、もうその教えを何か、あの頂くのですから、それを見ながら私自分で思うた、ほんに、自分で書きばしるごと、自分の思いばし書くごと思いましてね、ほんにどんな立派な額に入れたっちゃよかたいと思うて、まあとにかく待ちなさいというて、その場で私あの神様に頂いて書かせてもらおうと御祈念をさせて頂いたら、只今その事を頂くんです。
 ですから、勿論この事はその全然百姓には縁の無い方ですけれども、今度行かれるのはやはりお百姓さん、お百姓さんと言うてもあの、沢山ななえき屋さんであり、百姓だからと言って畑に出らなければならんという事ではないですけれども、けれどもやはり皆がそうして百姓をしておられますから、とばかりはいえないだろうと思う。いわゆる、その本、山の中であり、そうした田園の親しみというようなものも分からなければ生活が出来ないような事になられる方なんです。
 それで私、それを皆書くわけにはいきませんから、それを集めたような心持ちで「四方拝の心」と私書いてやりました。四方拝というのは勿論元日の事ですね。自分の周囲の一切を拝む心と私は書いてやったのですけれどもね、その後に思うのですけれどもね、教祖の神様の御教えを広さ深さという事、と言う事はとても、おー驚いてしまうほどにいつの場合でも感じるわけですけれども、只今、拝読させて頂きました御理解。
 中からです、もう信心させて頂くものは絶対、これだけは身につけていかなければならないという事を、この御教えの中に教えておられるという事を感じますですね。どうでしょうか、「女が菜園に出て菜を抜くとき地を拝んで抜くというような心になれば、おかげになる」と仰っておられる。野菜畑のことだけじゃないですね。一切をこの拝む、大体野菜1本を頂かさせて頂きますでもです、大地を拝むような心になれば、ね。
 拝むような心になればおかげが頂けれると仰る。だからいかにもその拝む心というものが大事かという。だから拝む心というのは勿論和賀心に通じる。和らぎ喜ぶ心に通づる事。分かるでしょうが。ね。もう本当に、平易で誰にでも分かるように、教えてくださってあり、又、私共が、身につけなければならない御教えが実はおかげを頂いていない所を見ると、身に付いていないと言わなければ仕方がありません。ね。
 野菜1本抜かせて頂くでも大地を拝むような心になればおかげになると。ね。大地を拝むような心。どのような場合でも。ね。私はこの大地を拝むような心をどうぞ頂かなければならない。いつでも。どこにおっても。ね。どうぞ一つ。大地を拝む心になりなさいと。先日から私は申しますように、一切がその生きた魂というものがあるということ。ね。下駄にでも、ね、
 自転車にでももう一切の例えばこう言う様な、時計のものそう言う様なものにでも、一つ一つその命というものがあるんだと、復体の事を御話致しました。ですから本当に私なら、下駄一つを履かせて頂く時でもです、大地を拝むような心で一つ下駄を履かせてもろうたら有り難い。有り難い自動車を乗らせて頂くときにです、大地を拝むような心で自動車を拝ませて頂いたらそう言う様な心であればおかげになると仰るのですから、もうそこんところに焦点をおいて一生懸命稽古をしたらよいという事になるです。
 乗ってしもうてからまた、拝むことを忘れておったということでは。(笑)いちいち拍手して、拝むことはいらん。いちいち合掌して、拝むことはいらん。本当に心に合掌し心に拍手をして、拝むと言う様な心のゆとりと豊かさと、和らいで喜ぶ心というのが、私はいかに大事かと、ここんところを一つ只今、32節の御理解の中から一つ、頂いた、頂かなければ出来ん。
 女が、菜園に出て地を拝むような心になればおかげがあると仰るのですから、そういう心になればおかげがあると仰るのですから、ね、そこで、皆さん一切を拝まねばならない事が分かったでしょう。今度はですよ、又それを煮て食べる時、神様頂きますというような心あらばあたることなしと。ね。自分の好きなものの時には、ごちそうさまというけれども、自分の嫌いなものの時にはいつもご馳走様が出てこない。
 ですからもう食べる前から頂きます何て言う様な気持ちが起こってこない。又これば食べんならん、こげなもんどん作ってからと。と言った様なことになる。頂きますという心になればあたる事がない。良いですか、ね、ですから只今私が申しましたように、ね、女の人が菜園に出て野菜を抜く時だけではない、下駄を履く時でも自動車を乗る時でもとこう申しましたように、これは食物を食べるというときだけの事でもない。
 食物を頂く時だけではない。私共に神様がです心の糧として与えて下さろうとする、物一切を私は差してあると思います。御理解などはいつも大地のもので御座いましょうね。御教えをというのはそれが心に頂く糧の第一のものでしょう。けれども御理解というのはここで頂くお話だけの事ではありません。いつも絶えずどこにでも神様は私共にささやき掛け、または大きな声を持って私共を教えて下さってあるので御座います。
 ですからそれを頂くという心。ね、神様それを頂きます、頂きますと言う心。御理解を頂きよりましてからですね、そこ、それ、そこを私の頂く、それを私の頂きにすると、というような時がありましょうが。そういう時は本当に皆さんに頂いた時なんです。障る事なしということになったらどんなにありがたいことになるでしょうね。私共の心の中にですね、あれがああいうたから、それが障ってから何日もそれにもたれて折るという事があるでしょうが。有り難く頂いていないからなんですよ。ね。
 苦いものは嫌臭いものは嫌というちゃならんです。この苦いような事こそ、心の胃腸が今丈夫になっていきよる時であると。ね。この臭い、にんにくだけれどもやはり五体が丈夫になっていきよる時というようにです、ね、美味しい、甘いというものだけではありません。苦いもありゃ辛いもある。ね。それを頂く心になればと仰るのですから、それを頂く心にならせて頂いていわば健全な心。
 好きなものだけを有り難く頂くという事になりましたらですね、もう小さい範囲になる。これを人間関係の事なんかにしてごらんなさい、大きなお店ならお店をするということになってごらんなさい、自分の好きなものばっかり、自分の同じごたるタイプのものごたるとばっかりを集めたんではもうそれだけでしか、いわばその店の繁盛はないでしょう。たまには自分の反対も云う。ね。赤もおれば白もおる。
 青もいれば黄もおる。様々な色合いのものが集まってそれを包容出来、包含できるようなです、内容になってこそです、例えば、極彩色の絵がかけるようなものではないでしょうか。そこは私はいつも、ね、大きなデパートのようなおかげを頂くためにはと、魚屋さんもあれば、八百屋さんもある、乾物屋さんも、化粧品屋さんもあるというように、申します。それなんです。どういうタイプの人でも自分の心の中に頂けれる人。
 泳がせれる人。事の出来れる人。ね。どういうような人の話でも頂けれる人。どういう人でもお付き合いが出来れる、頂けれる人。ね。そこでこの、第32節の御理解がです非常に、範囲の広いことが分かり、しかもその、32節だけでもです、信心させて頂いておかげを頂いていくということ。人間が幸せになっていく事のコツあいがこのなかにある事が分かりましたですね皆さん。
 どうですか、これは女が菜園に出るときだけの御理解ではないことが分かるでしょうが。ね。しゃっち、お百姓さんの女房にならなければです、ね、こげなおかげを頂けんということじゃないという事が分かるでしょうが。私共周囲の一切が菜園であり、ね、野菜畑である。私共の周囲の一切がです、煮て食べるところであるという事になって来るとき、四方拝の心という事が有り難い事になってくるでしょう。皆さんこれを本当に頂かにゃあいかんのです。そういう心になればおかげがあると仰る。
 そういう心になれば触る事がないと仰る。心に触るから憂鬱になるのであるわけでしょうが、頂く心にならんからでしょうが。それを煮て食する心にならんから。こんな食べたくないというて向こうに跳ね返しよるからおかげにならんのでしょうが。それを神様に抵抗しておるからおかげにならんのです。神様に言い訳をしておる神様のお心を心としておらんからおかげにならんのです。ね、
 そこで、それを自分の物にいよいよそういうようなあり方にならせて頂こう、そういうようにあらせて頂こうと皆さんがここに願われる時です、そんなら、いつのどういう心の状態であったらおかげが頂けれるかということになるわけです。私は思うのです。いつも、育てられておるという気になるという事だと思うのです。いつも、育てられておるのだと言うこと。ね、
 だから育てるということにおいてはです、甘い顔だけでは育たないでしょうが、皆さんどうですか。甘やかすばっかりではいかんでしょうが。そこでいつも、このことを忘れちゃならん。いつも、お育てを頂いておるのだと。天地の親神様はいつも私共にお育ての手を差し向けてくださっておるのだと、ね、這い這いが出来るようになったらもう立たせようとしてござるだと。
 立つことが出来るようになったらもう歩かせようとしておられるのだというこちらの気持ちにならせて頂いておりますとです、それが、甘いことであろうが苦いことであろうが頂くことが出来るのです。だから絶えず、自分自身としても育たなければならない。ね。求めてやまぬ求道心というものが心の中になからなければならないという事が分かるでしょうが。一つそこんところを皆さんがよう分かられてですよ、ね、
 どうぞ、大地を拝む心、ね。頂く心。そこに私共がいつも、心の中に、心に触る事のないおかげ、ね、私共が願っておるところのおかげを頂きたいと思うならば、いつも、大地を拝む心、ね。そういう心にならせて頂く、そういう働きがいつもあっておる。それをお育て頂いておる神様のお働きと、だからいつも心にかけておらなければならないと言う事を申しましたですね。
 どうぞ、最後にね、もう一偏、今のこのご理解を暗唱しておかなければなりませんよ。意味しっとりますけれども、ところをこの混同しておりますね。「女が菜園に出て菜を抜く時、地を拝んで抜くと言う様な心になればおかげがあると。またそれを煮て食べる時、神様頂きますという心あらばあたる事なし」と。この御理解を本当に女が菜園に出た時だけではない、ね、私共いつも、菜園にでて、野菜を抜いて、それを煮て食して頂いておる時ということを分からせて頂かなければならんと思うのです。               おかげ頂かねばなりません。